【参加者レポート】第6回縁起でもない話をしよう会「がんについてどっぷりと」@鹿児島市和田
【参加者レポート】
がんは特別なことではない
category - イベント参加 2019/ 05/ 15
そこでもたらされる話題の奥深さと自分でも自覚できていない問題に気付かされる対話の貴重さに魅せられて、
今回も参加して参りました第6回目となる「縁起でもない話をしよう会」。
今回の話題提供者は今回の話題提供者は、「特定非営利活動法人がんサポートかごしま」というがん患者支援団体の理事長をなさっている三好綾さんでした。
御自身も乳がんの経験者で、がんサポートかごしまの活動を通じてこれまで多くのがん患者さん達と関わってきて来られた方です。
三好さんは最初に御自身の自己紹介をユーモアを交えつつなさって、会場の空気を柔らかなものとされていきながら、
徐々に本題となる「縁起でもない話」へと入っていくという流れでお話をされました。
ある日、三好さんががんサポートかごしまの活動として、
「乳がんの啓発活動をしています」とある女性にチラシ配りをしていた際に、「あ~!がんとか縁起でもない!」と言われたそうです。
その時、「がんについての話は縁起でもない話」だと思われている実情に悲しい思いをされた三好さんは、そんな風に思われるのではなく、もっとみんなで考えられるような話になることを望まれました。
いつかがんについての話が縁起でもない話でもなんでもない話になればと思うということを述べられました。
実は私個人としてはがんについての話はすでにそのレベルに到達しています。高血圧だとか糖尿病だとか、皮膚があれやすいだとか便秘しやすいだとかいうのと同じレベルでがんがある。
がんがないと思われている人も見つかっていないだけかもしれませんし、調べて見つかっていない人でも細胞レベルでは毎瞬微小ながん細胞が生まれているも、身体の持つ免疫システムでコントロールされているということはよく言われます。
それがたまたま免疫のコントロールが及ばず、がん細胞が見える形まで顕在化したという形の身体の不調の現れ方をしているだけです。
ただし社会は全然そうだとは思ってはいない、と認識しています。がんとは早期発見・早期治療すれば治る病気であり、放置すると怖い死に至る病であるというイメージが人々の頭の中に強固に刷り込まれています。
ここで気が付くのは「縁起でもない話」というのは、本人の価値観の中で目を背けたいと思っている話題についての話、ではないかということです。
もっと端的に言えば、「本人が怖いと感じている話」と言い換えることもできません。前回の相続の話は怖いというよりは目を背けたいニュアンスの方かもしれませんが、ある意味では「怖い話」とも言ってもいいように思います。
逆に言えば、何を怖いと感じるかによって、その人にとっての縁起でもない話は変わりうるということです。
三好さんはこの後、様々ながん患者さんとの交流、特に御臨終前のやり取りについて語られましたが、
語り方の妙もあったのでしょうけれど、そこには不思議と怖さは感じられませんでした。
がんの終末期に至っても最期まで笑っていたいと病室で多くの医療者を招いてフライドチキンをふるまうパーティーを開くことを立案された患者さん、
「自分は死ぬのかな」と尋ねたことから、三好さんとのやり取りの中で死を恐怖としてではなく、誰にでも訪れる当たり前のものとして受け入れることができた患者さん、
傍からみるとわがままに自分の思うがままに生きてきたように見えるのに、最後の最後に自分らしく生きることの難しさに気付き、自分の人生に懺悔する思いがこみ上げてきたという患者さん、
そうした方々とのエピソードを聞いていて、怖さではなく、なんというか心に響くものを感じることができました。
もちろん、すべての患者さんががんを受け入れて、満足した気持ちで次の世界へと旅立たれたとは言い切れません。もしかしたら絶望の想いでこの世を去られた方もいらっしゃったかもしれません。
ただ、がんを怖いものだと受け止めるかどうか、がんによってもたらされた余命という概念を不幸だと思うかどうかは自分次第だと思います。
ひとつ、はっと気づかされたこととして、三好さんは「命が何より大事」という価値観も社会の中でいつの間にか植え付けられていることだと指摘されました。
「命が大事」ということは、余命宣告がなされ、その大事な命がなくなっていることを意識させられた患者さんは大事なものが奪われた不幸な人間なのか、という話になってしまいます。
ところが命より大事なものがいくらでもあると気付いた時に、生きることに楽しさを見いだせるようになってくるというのです。
命より大事なもの、皆さんにとってはいかがでしょうか。
ある人にとっては自分のこどもかもしれません。ある人にとっては自分にしか残すことのできない芸術作品かもしれません。
私にとっては自分が生きてきた経験から得られた気付きによって誰かの役に立つことができるという事実かもしれません。
一言で言えば「他者貢献」、これがなければいくら命があっても私はそこに意義を感じられません。
「自己満足」は短期的には楽しいかもしれませんが、そこに「他者貢献」がなければ、長くなればなるほど命をむなしく感じてしまいます。
従って、余命が与えられるということは、残された時間でどんな他者貢献ができるのかと、
今まででは決して思う事のなかった新たなテーマを与えられるということへもつながるように思うのです。
三好さんが紹介されたがん患者さん達は、皆そういう境地に到達し、誰かのことを想って旅立たれた方々だったのではないかと私は感じた次第です。
会の終わりには毎回恒例ですが、話題提供者の方からの問いについて参加者どうしで小グループになって自由に語り合うという時間がありました。
今回の問いは「もしがんが治らないと分かった時、どうやって希望を見つけますか?」、それを自分の場合と、自分にとって大切な人がそうなった場合とで考えてほしいというものでした。
私はもし自分が治らないがんだと分かった時は、手術、抗がん剤、放射線といった西洋医学的治療は一切受けないと決めています。
その上でがんをこれ以上育てないよう食事とストレスの観点を見直します。きっと仕事はやめて、なるべくゆっくりできて執筆活動に専念できる環境を探すことでしょう。
そして何か本を残すのではないかと思います。それができないくらい残された時間が少なければブログ記事かもしれないし、
書けないくらい体力を消耗していたらそばにいる人に遺言を残すかもしれないし、言葉も発せないような状態ならただ笑っていようと努力するかもしれません。
その段階、段階で私ができる「他者貢献」の形を考えて実行に移すことで、私は希望を見出すように思います。
ところが私とは違う私の大切な人が同じような状況におかれた場合はこの問いは一層難しいものとなります。
私はそう考えることができても、大切な人が同じように感じてくれるとは限らないからです。
そんな中で私が絞り出した答えは、「何はともあれがんと闘わないでほしい」ということを伝えると思います。
がんは自分の身から生まれてきたもの、自分そのものなのだということ、もちろんそれを元に戻すための食事とストレスのポイントをアドバイスしつつも、
受け入れられなかったり実行できなかったりした場合も、「ありのままを受け入れる」ことを勧めます。
それでも大切な人ががんと闘うことを止められなかったり、がんと闘わないことの方がストレスを感じてしまうような心持であったとしたら、
その人に想いが完遂できるように、なるべく苦しまなくて済むように、私は医者ですので漢方薬やホメオパシーなど副作用のリスクを最小化した手段でその人をサポートし続けると思います。
ともあれ今回も自分の心を整理する貴重な時間となったように思います。
縁起でもない話をしよう会は、普段できない話を気兼ねなくできることと、
縁起でもない話をしたいと思っている方々と触れ合うことで多様な価値観を共有できるということが大きな魅力だと思います。
世の中にはむしろ縁起でもない話などしたくないと思っている人の方が多数派だと思うので、これは非常に有意義なことです。
いざという時に備えて皆さんも、周りの気心のしれた方々と「縁起でもない話」をしてみるというのはいかがでしょうか。
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