【参加者レポート】第2回縁起でもない話をしよう会「最期をどこで生きるか」@鹿児島市和田
【参加者レポート】
在宅医療は主体的になりやすい
category - イベント参加 2018/ 09/ 14
先日鹿児島市内にある妙行寺という所で開催されていた、
「縁起でもない話をしよう会」という興味深い名前の会に参加して参りました。
参加費無料、事前予約不要という哲学カフェと同じスタイルで開催されていて好感が持てるこの会は、
2時間の開催時間の中で、前半は講師の先生が話題を提供し、後半は参加者全員でグループを作って提供されたテーマについて自由に語り合うという構成で執り行われていました。
「縁起でもない話」、すなわち普段人前で話すことがはばかられるような内容の話、
言い換えればタブー視されるような話題を、先延ばしにせずにむしろ積極的に語り合おうという趣旨の会でした。
ちょうど私も同じようなことを考えていた時期でしたのでタイムリーでした。
死が病院という非日常空間へと隔離されるようになり、死が身近ではなくなったために
死について考える機会が激減したことが、望まぬ延命治療を蔓延させる結果となったことを大きな問題と感じておりましたので、
その死についてじっくりと考えようと試みられたこの会の趣旨に、非常に興味をそそられました。
この日の講師はきいれ浜田クリニックの院長で在宅医療に熱心に取り組んでおられる浜田努先生で、
「死とは何か?」についてご自身の体験を踏まえてそのお考えを披露なさいました。
院長の重職にありながら、ぱっと見すごくお若く見える浜田先生ですが、これまでにたくさん患者さんの死の場面に遭遇されたそうで、
人の役に立ちたいという思いから医師になったはずなのに次々に亡くなっていく患者達を前に、「死=敗北」のイメージがずっとぬぐえなかったそうです。
そしてそのイメージを抱え続けると現実とのギャップに耐えきれなくなるため、死は自分とは関係のない別世界の出来事だと切り離して考えることによって自分の精神を保っておられたとのことでした。
ところがそんな状況が変わったのは、浜田先生が諸事情で実家のクリニックを手伝うために、
それまでにいた都会の病院を辞めて、実家に帰ってきて院長の仕事を行うことになり、
在宅医療に携わるようになってから先生の考え方に転機が訪れました。
往診に出かけてみると、患者さん達に心から感謝される場面に多く遭遇するようになり、
また病院における死の現場とは違う臨終の場面を在宅の現場で多く経験されるにつれて、
浜田先生にとって「死=敗北」というイメージが薄れていき、「死とは誰にでも訪れて、そして多くの人に支えられながらも成し遂げられるべき人生の最期の時間」だという思いへと変わっていったようなのです。
だから浜田先生は今後も地元の地で在宅医療の発展にこれからも貢献していこうという決意を新たにされていました。
非常に考えさせられる内容であり、優れたサポーターがいれば人は最期の最期まで自分の意思を貫くことができると、
まさに主体的医療の概念にも通じる話ではないかと感じた次第です。
会の後半は、「もしもあなたが余命6か月のがんだと宣告されたとしたら、最期の時間をどこで生きたいですか?」というテーマでのグループディスカッションでした。
「最期どこで死にたいですか?」と表現されていない所がミソだと思います。健康な精神であれば死にたい人など決していないであろうと思うからです。
ネガティブな死を感じさせる表現ではなく、「死ぬというその最期の瞬間まで生きる」という風にあくまでもポジティブな生の世界の延長戦上に死をとらえることで、
死についてより考えやすくする工夫がなされていると感じました。
さらに考えを進めやすくするために会場では、「自宅」「家族の家」「病院」「施設」の4つの選択肢が絵入りのカードで準備されていて、
そのカードを使いながら適宜自分の思いを語り合うという流れで語り合いが進められました。
私は病院の医師で、病院で亡くなられる患者さんがろくに意思表示もできずに点滴や尿道バルン、経鼻胃管や胃瘻などにつながれ、
スパゲティ症候群と揶揄される、おそらくは本人の本意ではないであろうその終末期の状態を何度も目の当たりにしているので、
「自分は病院や施設では絶対に死にたくない、自分は自分が一番自分らしくいられる場所で最期の時を迎えたい」と、
「それはこの4つの選択肢の中では『自宅」』である可能性が一番高い」という意見を述べました。
しかし多くの参加者の皆さんの中からは、「自宅で亡くなりたいのはやまやまだけど、やっぱり痛みや苦しさにすぐに対応してもらえる病院でお世話になる方が安心」という意見が多数派を占めました。
在宅医療をはばむ壁として、人々の中に病院での医療の質が最高で在宅になればそこからはどうしても劣ることになるというイメージがあるように感じました。
そして本質的には自ら動こうというのではなく、誰かに委ねようとする意識の強さです。
平たく言えば、主体性よりも受動性が強いが故に在宅医療をあきらめてしまう、とも言えるのかもしれません。
どうすればその受動性を主体性に変換させることができるのでしょうか。
そのためには主体的であってもいいんだと思ってもらえるサポートの存在が不可欠であるように私は思います。
家で最期まで生き抜きたいという患者の強い主体性がまずあれば、
それを応援するために在宅医は訪問看護師や介護スタッフ、ケアマネージャーなどのチームメンバーと協力して
家族とも連携をとってその主体性が貫けるように最大限のサポートをすれば患者の願いを叶えることができます。
現代医療の中でも、在宅医療は主体的医療を実現しやすい現場ということも言えるのかもしれません。
だから在宅医療は私の肌に合うのでしょうか。
願わくはその主体性が死が近づいてきてからようやく発揮されるというのではなく、
いつでも、どんな時にでも、主体性を持って医療に関わることができたなら、
きっと良い医療が展開されていくのではないかと考える次第です。
「縁起でもない話をしよう会」、次回は11月14日(水)19時からだそうです。
興味のある方は是非参加してみられてはいかがでしょうか。
たがしゅう
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