【参加者レポート】第1回縁起でもない話をしよう会@西本願寺鹿児島別院「死に方を考えることは生き方を考えること」
【参加者レポート】
悔いのない死のために自分らしく生きる
category - イベント参加 2019/ 05/ 27
先日、いつもは妙行寺というお寺で行われている「縁起でもない話をしよう会」が、
西本願寺という鹿児島市内の別のお寺でも開催されるということで、
「縁起でもない話をしよう会」ファンの一人として参加して参りました。
仕事の都合上、途中からの参加という形にはなってしまいましたが、
今回も有意義な気付きがありましたので、この場でシェアさせて頂きたいと思います。
今回話題提供をなさったのは、妙行寺での第一回の「縁起でもない話をしよう会」の時にもお話をなさった外科医の平野慎一郎先生でした。
平野先生は御自身の診療の中で、死に直面する患者さん達とのやり取りの中で、
患者さん自身は勿論ですが、その御家族が死を受け入れる準備をすることの難しさを感じられたそうです。
縁起でもないからとこうした話を遠ざけ続けることによって、結果的に残された人が亡くなる方の意志を受け取ることができなくなることがいかに辛い状況を生み出すかということを感じられました。
だから元気な時にこそ縁起でもない話をする必要があるということを多くの人に知ってもらうために、
病院を飛び出して地域に出てこうした活動を始められたのだそうです。
いくつか印象的な話をなさった平野先生、そのひとつに「elephant in the room」という英語の諺を紹介されました。
これは「空気を読め」という意味だそうで、
今一組の夫婦が食卓を囲み夕食を楽しんでいるところに、
どこからともなく一匹の象が侵入してきた場面を想像してみて下さい。
象が入ってきて恐ろしいけれども、だからといってこんな大きな相手に対して如何ともしようがないと、
だからここは象に気付かないフリをした方が得策。夫婦は何食わぬ顔で夕食を続けようとするという場面から転じてそのような意味になったそうです。
ここでの象がまさに「縁起でもない話」なのだと平野先生は指摘なさいます。
怖くても象の存在を直視して語り合いましょうと、そしたら少なくとも心の準備はできるだろうし、もしかしたら象は大きくても意外とやさしい子かもしれません。
だから現実をむやみに恐れずに語り合いませんかということをおっしゃっていました。なるほどです。
「縁起でもない話」はそれを怖いと感じているから話そうとしないのであって、まずはその先入観を捨てて語ろうとする姿勢を保つことが大切なのだと感じました。
それから平野先生は「死に方を考えることは、生き方を考えることに通じる」という言葉も投げかけられました。
会の後半は、恒例の参加者どうしが3〜4名ずつの小さなグループに分かれて、
話題提供者の先生が投げかけるテーマに基づいて皆で自由に語り合う時間があります。
先程の言葉に通じる形で平野先生が投げかけられた質問は、
「もしも自分が死んで魂だけ残ってこの世に残れるとして、自分の通夜で参列者の方々にどのような事を語っていてもらいたいですか?」というユニークなものでした。
私はこの質問に対する答えは比較的簡単に思い浮かべることができました。
「幸せとは貢献感」というアドラー心理学の教えを大事にしている私としましては、
自分の人生は貢献をテーマにし続けて幕を閉じるつもりなので、
通夜の場面では「あの時、たがしゅうさんに助けてもらってよかったよね」とか「亡くなって寂しいけど、あの人の想いに報いるには自分達も誰かのためになることをしないとね」「それがあの人の何よりの供養になるよね」などと語っていてもらいたいと思いました。
ところが一緒に語り合った参加者の方からは私の想定しなかった別の考えを聞くことができました。
亡くなった自分との関わりは人それぞれ接点の数や頻度、密度などによって変わってきて当然のもので、
皆が一人の人間に同じようなイメージを抱くことはありえないはずだと。
だからひとつの固定的なイメージで故人を語ってもらうのではなく、参列者それぞれの感じた故人のイメージを自由に語り合ってもらい、
まるで未完成のジグソーパズルを埋めていくかのようにそれぞれの参列者がそれぞれ気付いていなかった故人のイメージを補完し合うことによって、
故人の全体像を参列者全員の中で共有することができる場、それが通夜だという意見を聞いたのです。
私は今まで通夜とは亡くなった故人を単純にゆっくりと偲ぶ場だと思っていましたので、それはまさに目から鱗の意見でした。
実際その意見を聞いた別の方は、自分の母親の通夜の時に、あまり面識のなかった御年配の方々が続々と参列されて、
自分が知らなかった色々な母親との思い出教えてもらえて、またそれを孫の世代にも伝えることができてとても良かったというような感想を述べておられました。
こうなるとただ単に悲しいイベントだと思われがちな通夜も、残された人達に心の支えとなったり、これからも生きる自分達に誇りを与えてくれる大事な意義があるようにも思えてきますし、
その流れを作るための必要不可欠な死というイベントが単なる悲しいことではなく、来るべきその瞬間を大事な時間とするための誰もが通る通過点だとの認識が生まれ、怖さが軽減されて語り合おうという意欲が生まれてくるように思います。
そしてそんな有意義な通夜にするためには、それだけ多くの人達と友好なコミュニケーションを築き続けてこそだという側面も見えてきました。
まさに死に方を考えることは、生き方を考えることへとつながった瞬間であるように感じました。
死の話題を避け続け、自分がどうしたいかも考えずに「先生にお任せ」し続けてしまっていると、
死はこれからも残された者達にとってただの悲しい出来事であり続けてしまいます。
自分らしく生きるために大事な選択を他人に任せないという姿勢は私の提唱する主体的医療にも通じる考え方です。
確かに病に倒れたら、それが治療困難な病状へ進行すればするほど、
考える余裕が失われ、選べる選択肢も減って自分らしさを追求するにも限界が出てくることでしょう。
だからこそ元気なうちに自分の意志を表明しておくことが大事ですし、
最期の最期、究極的にはありのままを受け入れるという自己選択はできると私は思います。
もしも死という瞬間が自分に訪れるのであらば、そこにはそうなるはずの必然的な理由があるはずです。
だから私はその瞬間を受け入れるし、出来ることなら全てに感謝して笑って、あるいはその気持ちを持ってその瞬間を迎えたいと思っています。
従って点滴、胃瘻、人工呼吸器を含めて一切の延命処置を私は希望しません。
もしかしたらその時が来たら気持ちが変わるということはあるかもしれないけれど、
そうしたいつでも変えられる選択肢を残しながら、縁起でもない話をし合うことにこそ大きな意義があるようにも思えます。
ともあれ、今回もいろいろと考えさせられる良い時間でした。
ちなみに「縁起でもない話をしよう会」、同じような試みを行うのに名称を使うことに対して許可は一切要らないそうです。
ただもしよければ、Facebookの「縁起でもない話をしよう会」のグループに活動報告をしてもらうと立ち上げメンバーの皆さんも喜ばれるとのことでした。
私もどこかで「縁起でもない話をしよう会」、開催してみようかなと思いました。
この活動が全国へと広がって、多くの方の死と生が今以上に有意義となっていくことを願っています。
たがしゅう
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